おひさまに魅せられてPart2

おひさまに魅せられてPart2

韓国の女優ハ・ジウォンさんの素敵さを綴るファンブログです

訳してみました

先日、気になる記事を見つけたのでリンクだけ貼ってご紹介していたのですが、その後にドラマに関するコラムも上がったので、やっぱり訳して残しておきたいという気持ちになりました。

もう一つ、昨日取り上げた記事がワタシ的には物足りなかったというのがありまして(^_^; もちろん、これはジウォンさんが悪いわけじゃなくて、取材(広報が出した情報?)が裏話の公開に重きを置いていたというのがあるかもしれません。

放送終了後に、ジウォンさんのロングインタビューとかあればいいのになぁ。 

 

さて、その気になる記事はこちらです。

n.news.naver.com

 

「チョコレート」 ハ・ジウォンがユン・ゲサンから逃げてばかりいる理由

[ドラマ人物探求生活]みんなを愛しているが、自分を愛することができない「ムン・チャヨン」

[オーマイニュース ソン・ジュヨン記者]

ドラマの中の人物の心理を探求してみます。その時その場面の気になった人物の心理を広げてみれば、いつの間にか私たち自身の心もさらによく見えることになるでしょう。

可愛らしくて美しいカップケーキ、自然をイメージした花の天ぷら(ティギン)、桜の花の香りがしそうなのり巻き(キムパプ)、ぐつぐつ煮えるのを見るだけでも唾が溜まる餃子寄せ鍋(マンドゥチョンゴル)...

JTBCドラマ「チョコレート」の主人公チャヨン(ハ・ジウォン)が作る食べ物だ。ホスピス病院で仕事をするシェフ チャヨンは毎回患者に料理をもてなす。これらの料理はただの食事ではない。チャヨンは患者一人ひとりの心を読みだしてこれに対しぴったりな料理を作って、生きることの最後の過程を歩いている彼らに幸福をプレゼントする。心を込めて料理するチャヨンの姿と、料理を食べて幸福そうなドラマの中の人物を見ていると、視聴者である私も幸せになるようだ。

 

ところが変だ。「料理をしない」チャヨンの姿が現れるときはもどかしさが押し寄せる。 カン(ユン・ゲサン)を愛する心が明らかなものの、自分の心はわざと知らないふりをして「私はイ・ガン先生が好きでありません。私の命を救って下さった有難いお医者さん、それ以上でもそれ以下もありません」(10回)と話すチャヨン。なぜ他の人の心はよくわかって誠意を尽くして面倒を見てくれるチャヨンが、自分自身の心にはこのように薄情にふるまうのか? みんなを愛するが、自分自身に対する愛は実践できないチャヨンは、いったいどんな気持ちなのか?

 

ありのまま愛されなかった幼少期

幼少期のチャヨンが登場する場面はこうだ。ある海辺の村で家族と共に休暇に行ったチャヨンは、町内を歩き回って門が開いている一軒の庭に入る。ちょうど庭には乾燥させるために干したさつまいもがあった。とてもお腹がすいたチャヨンは周囲を見回してさつまいも切り干しを盗む。この時、その家の息子であるカンが現れる。カンはチャヨンを叱るどころか、「こっちが人の食べるもの」と言ってさつまいも切り干しを渡した。そしてチャヨンを母親が経営する食堂に連れていって、食卓いっぱいの食べ物を用意してくれた。チャヨンはカンが用意してくれた料理をとてもおいしく食べる。「とてもおいしくて涙が出る」と泣きながら。

 

いったい幼いチャヨンはなぜお腹がすいていたのか。なぜカンが用意した食べ物に涙まで見せて感動したのか。続くチャヨンの家族の姿は手がかりを提供した。チャヨンの母親は娘を「子役俳優」にするために苛酷なダイエットをさせる。チャヨンがカンが与えたご飯をおいしく食べて来た日、母親は「明日がオーディションの日なのに体重が増えた」と言ってとがめる。 反面、チャヨンの父親は母親が怒っているその瞬間、チキンを買ってくる。だが、妻の怒りの前に何の行動も取らない。子供を自分の所有物のように扱う母親と、これに振り回される父親から育てられたチャヨンが、この両親からもらえなかったことは「ご飯」だけではなかったはずだ。存在それ自体を認められ、愛されたいという気持ちも、きっと満たされることがなかったはずだ。

 

幼いチャヨンの飢えは単なる飢えではない。この空腹は愛されたい欲求の欠乏、すなわち愛情欠乏を象徴する。このようなチャヨンに自身の空腹を満たすカンの行動は、チャヨンがあれほど渇望した「愛」そのものだったのだろう。これはチャヨンには全てを受け入れてもらえた初めての経験であったかもしれない。チャヨンが大人になる時までカンを忘れることができなかったのは、まさにこのような理由からだ。

 

私は愛される価値がない

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このように欠乏した愛に飢えていたチャヨンは、自分の誕生日にプレゼントを買ってあげると言ってデパートに呼び出した母親に最後まで会うことができない。自分がこの世に生まれた日、母親から捨てられ、無惨なデパート崩壊事故を経験したチャヨン。彼はどんな自己概念を持つようになったのだろうか?

 

心理学者によると、人は重要な他人(代表的に親)との関係を通じて自分自身に対する概念を作っていく。幼い頃、自分の生存を頼った人にありのまま受け入れられ、愛される経験は、「私は愛される価値がある」という肯定的な自己像を作り出す原動力になる。自分自身に対する愛をもとに世の中と関係を結んだ人は、他人はもちろん自分自身にも親切になる。反対に、重要だった他人が自分を拒否したり、条件的にだけ受け入れる経験をした場合、自分に対する受け入れと愛は制限されるしかない。

 

それでは、チャヨンはどうだっただろうか。幼い子供の飢えさえ受け入れてあげられず、「子役俳優」の夢を強要した母親と自分を守ってくれない父親。しかも親はふたりとも消えてしまう。このような両親に生存を頼っていたチャヨンの内面には、「私は愛されるに値しない」というメッセージが定着しているはずだ。空腹のような基本的な生理欲求さえ受け入れられなかった経験は、「私の欲求など重要ではない」というメッセージを注入したのだろう。


そのため、チャヨンはもどかしいほど、カンに向かった自分の心を追い出す。4回にカンの手術を受けて生き返ったチャヨンは、感謝の気持ちを伝えるためにカンの事務室を訪ねていく。しかし、「あなたに届かないよう、一生懸命またこのように逃げます」とためらうばかりだ。もちろん、カンがチャヨンの元彼だったミンソン(ユ・テオ)の親友だったという設定は、チャヨンがカンに対する愛を受け入れないようにする条件になり得る。しかし、ミンソンは手紙を通じて、「カンのためにギリシャに発ったことを知っている、カンをよろしく頼む」とチャヨンに遺言する。これを知っているにもかかわらず、チャヨンはカンに「私にもイ・ガン先生はミンソンさんの友達です。その事実を一度も忘れたことはないから心配しないでください」(10回)と言い、自分の感情を引き続き否定する。


チャヨンが面倒を見ることができないのは、カンに対する気持ちだけではない。怪我をして助けを受けなければならないたびに、チャヨンは積極的に自分を助けるよりは「大丈夫」だけを繰り返す。頭を怪我して嗅覚と味覚を失ったことを知った後も、チャヨンはただ患者のための料理を作るだけだ。チャヨンは、このように自分自身が望むことと必要なことなどを努めて無視しながら生きていく。

 

他人のために存在する自分

一方、チャヨンは他人の面倒を見ることには情熱を尽くす。料理人の域を越えて通り過ぎる通行人、病院の患者一人ひとりの事情に関心を持ち、彼らを苦労して助ける。息子に捨てられたおじいさんの心を察してあげたり、チヨンのお母さんを探したり、ヒジュとジュン(チャン・スンジョ)をつないだりもする。単に温情を施すだけではない。患者を「死んでいく人々」とむやみに話すイ・ガンの叔母(ユン・イェヒ)に「ここにいらっしゃる方々は死んでいく方々ではなく、1日1日を愛している方々です」(10回)と断固として対応する。海外養子縁組に行った息子にお金目当てに接近する実母とその家族にも強く警告する。

 

チャヨンのこのような行動は、全て認められることができなくて生きてきた人生に対する反動から始まったものといえる。自分自身の存在感をしっかり受け入れられた経験をした人は、何もしなくても自分自身の存在を感じることができる。だが、このような経験のないチャヨンは、他人との関係で何かを与え、他人の権利を代弁する時にこそ、自分に価値があることを感じることができる。チャヨンの利他的な行動は、それ自体崇高なものでもあるが、自身の存在価値を確認したいという無意識の願いが加わったものといえる。

 

同時にチャヨンが施す「愛の手」は、「私もこのように優遇され、愛されたい」という深い欲求の表現でもある。チャヨンは患者たちの事情にまるで自分のことのように大切に接し、一緒に泣いて笑う。「料理人らしく料理だけ作れば良いものを、この患者あの患者、みな追いかけて問題を起こす」というカンの言葉のように、チャヨンは他人を助けて自らが危険にさらされることもある。それでも手助けを止めないチャヨンは、自分自身が受けたい愛を他人に伝え、代理満足しているのかもしれない。

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チャヨンは10回で嗅覚と味覚を失い、ショックに陥る。それでも「病院に行こう」という弟の提案を振り切って黙々と他人のための料理を作る。「いったいどうしたんだ」という弟の絶叫にチャヨンはこう答える。「崩れたデパートよりさらに難しいことにも耐えたし、私は生きている。ここで座り込んだら私は終わりだ。二度と立ち上がれない。」おそらくこれがチャヨンの生き方だったのだろう。確かにチャヨンは自らを諦めることはなかった。一生懸命自分を駆り立てて生き残り、他人に愛を与えながら立派に生き抜いている。

 

それでもチャヨンはとても寂しそうに見える。これはすべての人々を抱いているが、まさに自分自身は疎外されていることに端を発した寂しさだろう。これからは、チャヨンが他人に与える愛を自分自身にも少し与えてほしい。自分自身を責めてばかりいないで、もう少し親切にしてくれたら本当に良いだろう。それでカンへの愛に心を開くなら、それだけでチャヨンはありのまま受け入れてもらう経験をすることになるだろう。この受容の経験は、幼い頃チャヨンが受けた傷を癒してくれるだろう。これを通じて自分自身をより愛することができるようになる時、チャヨンは存在自体だけでも他人に安らぎを与える人になれるのではないか。自分自身を愛する時、他人にも真の幸福を伝えることができるからだ。

 

長かった~(笑)4000字近くあった(^_^;

読み返してみると、やっぱりいい記事です。

こんなキャラクター分析がされる作品なんて、そんなにない気がします。

脚本がしっかりしていることと、脚本の中のチャヨンをしっかりと体現できるジウォンさんの力があってこそだと思います。

 

最後の段落の「それでもチャヨンはとても寂しそうに見える」というのが、私が感じていたことと同じでドキッとしました。同じことを感じている人がいたんだな、と思ったし、 後に続く文章にも納得でした。

 

皆さんにも読んでいただけたら幸いです。